卒業した友人の卒業論文


他の人の卒業論文(の全文)を読む機会はなかなかないので
ここに掲載させてもらいました。2001年3月に史学科を卒業した学友の論文です。
提供してくれた学友さん、ありがとう☆
皆様も、いろんなことを学べますので、是非読んでみてくださいね。

(注意)掲載にあたっては原文中の漢数字をローマ数字に直してあります。
また、見やすいように文中に適宜、仕切り線を入れてあります。
もちろん提出済み本文中には無い物ですのでお断りしておきます。
文中の図画に関しては私がスキャナで取り込みを行い、掲載しました。
当内容はHP公開用ということで縦横の文字数にはこだわってません。
通常は原稿用紙に手書き(史学科は手書き必須)ですのであらかじめお断りです。


法政大学 文学部 史学科

96×××××(学籍番号)          

××××(氏   名)

卒業論文
『依佐美送信所の歩み(地域との関わりについて)』
2000年12月30日

目次
凡例
はじめに
第1章  依佐美送信所ができた経緯及び歴史的背景
  第1節  送信所が必要となった歴史的背景
  第2節  依佐美に送信所設置を決めた理由
  第3節  送信所建設と地域住民
  第4節  送信所施設の概要及び送信方法
第2章  戦前における送信所
  第1節  最初の送信
  第2節  対欧無線送信施設として活躍
第3章  戦中における送信所
  第1節 対潜水艦通信施設として活躍
  第2節 「新高山登レ」の暗号との関わり
第4章  戦後における送信所
  第1節  在日米海軍基地となる
  第2節  反基地・反戦平和運動のターゲットになる
  第3節  米軍基地時代における地域
第5章  送信所返還
  第1節  米軍が返還した理由
  第2節  鉄塔撤去にあたって
  第3節  鉄塔撤去後の現在について
おわりに

参考文献


凡例

1、本文の記述は、常用漢字・現代かなづかいによるが、固有名詞に関してはこの限りではない。
1、本文中における年代の表記は、原則として和暦を先に表記し、( )内に西暦を付した。
1、敬称は省略させて頂いた。
1、史料の引用に際しては、句読点がない場合には、適宜それらを付した。


はじめに

 私が住んでいる隣の市である愛知県刈谷市の中の、のどかな田園地帯に、 依佐美の鉄塔と呼ばれていた250メートルもの高さの巨大な無線塔が8基も建っていた。 しかし、平成9年(1997)に全て解体撤去された。小さな頃からあの鉄塔に対して、 昼間はその高さに異様な雰囲気を感じ、夜になると赤いランプが点灯し、 遠くからでも綺麗だなと思って眺めていた。しかし、戦争があったら真っ先に そこが攻撃されるという話も耳にしていたため、何か恐ろしいものだとも思っていた。 また、真珠湾攻撃の際、「ニイタカヤマノボレ」の暗号を送信した施設といわれて いることにも興味を持っていた。 色々な噂が飛び交っていた依佐美送信所及びそのシンボル的存在である施設の鉄塔は、 いったい何であったのだろうか、あの暗号の送信は本当だったのだろうか、そして 依佐美送信所はどのような役割を果たしていたのだろうか。鉄塔が全て撤去されてしまった 今だからこそ、これらの疑問を解明していきながら、依佐美送信所及び鉄塔が、その歴史の 変遷における時代、時代において、地域とどのような関わりをもってきたのかという視点で、 考察していく。
 これらの考察にあたっては、参考文献の他に、地域住民の方々の協力を得て、 鉄塔に対する想いについて直接話を伺い、それらの内容も吟味した上で、送信所の シンボル的存在ともいえる施設の鉄塔と地域との関わりについて特に重点をおいて考察していく。 また、依佐美送信所を戦争における一つの象徴物として見た場合、日本は戦争に対してどの様な 姿勢をとってきたのか送信所について調べていくうちに感じた事についても論じていきたい。


第1章 依佐美送信所ができた経緯及び歴史的背景

第1節 送信所が必要となった歴史的背景

 本章においては、送信施設が必要となった理由及びなぜ依佐美に造られたのか、 また、送信所が完成する迄の経緯や地域への経済効果と住民との関わりについて論じていく。
 日本における通信施設は、明治維新以来、海外の電信会社が所有する海底電線、 すなわち、イギリスの東方拡張電信会社の東方線、デンマークの大北電信会社の大北線、 アメリカの商業太平洋電信会社の小笠原線のどれかを利用しなければ、海外との通信手段 がなかった。そのため、第1次世界大戦が勃発した際、大北線は不通となり、ついで大東線も 用を足さなくなり、日本と欧米との通信手段は小笠原線のみとなってしまった。このように、 貧弱であった対外通信施設のため、外交上・通商上の不利不便を蒙っていたのはもちろんの 事であるが、特に大正11年(1922)のワシントン軍縮会議において、日本の全権大使で あった加藤友三郎は本国の指示を受けるのに48時間も待った。そのため、この対外通信機関の 不備が国益上いかに不利かを認識させ、必要性にせまられた。
 また、海底電線では中継が多い事から間違いやすく、対欧通信に4時間もの時間を 費やしていた。そこで、中継がないため間違いがなく、対欧通信が15分という速さでできる 無線に注目した。
 無線通信は、イタリアのマルコーニが、明治28年(1895)2.4キロメ ートルの通信実験に成功し、明治34年(1901)には火花発信方式による大西洋横断に 成功してから国際通信の手段として実用化していった。 日本においては、明治30年(1897)東京月島の海岸と金杉沖(註1)の船舶との約2 キロメートルの通信実験に成功したのが最初の無線電信である。そして、明治36年(1903) に長崎と台湾との間で通信をし、また軍艦にも無線電信機を取り付けた。日本海海戦において、 見張りの信濃丸から発信した「敵艦見ゆ」の無線通信が活躍したのは有名である。明治41年 (1908)には、銚子・潮岬などと船と通信するための無線局である海岸局を設置した。 明治45年(1912)のタイタニック号遭難事件をきっかけに、大正3年(1914) 海上人命安全国際会議の決議もあり、船舶航行の安全のために無線装置は必要不可欠で あるとして、翌大正4年(1915)に無線電信法が施行され、同時に私設無線電信規則が 制定された。そして、北海道の落石の海岸局が初めてシベリアのペトロハバロフスクと通信し、 翌年には、船橋の海軍の無線電信局とハワイのカフク局との間で通信業務を開始した。 大正7年(1918)、戦争終結と共に貿易が盛んになり、そのため電報が急増したが待ち 時間がとても長かった。そこで、大正8年(1919)、国際通信機関の必要性を重視した 逓信次官である内田嘉吉らが、日米間に海底線及び無線電信を民間会社によって敷設したいと 提唱した。そして対米用に、磐城無線電信局(富岡受信所及び原ノ町送信所)が3年後に始動し、 初めて対外通信機関を所有した。これにより日本は海外の通信機関を経由せずに直接通信する ことができるようになったが、この無線局は応急的施設であったため十分な機能を果たせなかった。 政府は完全な直接対外通信機関を建設したかったが、戦後の立て直しに追われ、財政も逼迫しており、 巨額の経費を必要とする通信機関建設にまで手が回らなかった。また、大正12年(1923)の 関東大震災によって、政府は壊滅状態に陥り、国家の力のみでは成し遂げる事が不可能となった。
 こうして、日米の通信機関を民間資金によって増設する内田嘉吉の提唱が経済界の世論となり、 対外通信機関の充実が国民要望の焦点となった。そして、逓信(註2)・大蔵・外務・陸海軍の 各省関係官と内田らとの公的会合があり、大正14年(1925)2月の会議において、 「日本無線電信株式会社法案」が通り、10月に日本初の半官半民の会社として日本無線株式会社が 設立された。また対欧用として、名古屋無線電信局が、昭和2年(1927)着工、昭和4年(1929) 竣工、昭和5年(1930)に本格的に通信を開始した。これらによって世界の主要国と 直接無線通信ができるようになった。
 以上のように、外交上・通商上などの関係で、無線施設が国家的に必要となったのである。
また、自国の無線施設が備わったおかげで、外国電報料金の海外払いを節減することにもなった。
 これらの施設着工当時の世界各国は、遠距離無線通信は、波長が長いほど遠方まで伝わると 考えられたため、電力が増大すると共に波長も長くしないといけないとし、大電力の長波送信所を造った。 そして、短波では無線通信には使えないと考えられ、アマチュア無線家の通信用として専ら使われたが、 そのアマチュア達の研究で短波の方が無線に優れている事が判明し、純日本製の物がわずか2ヵ月で 取り付けられた。そのため、長波施設が無用の物となった感があったが、短波施設の欠陥を補佐 しながら目的を果たす事となった。


第2節 依佐美に送信所設置を決めた理由

 この依佐美送信所は刈谷駅から南東に約2キロメートルの所にあり、海抜10メートルくらいの 洪積台地にある。百万坪以上の広大な敷地はほとんど平坦である。この、当時の碧海郡依佐美村(註3) にどうして送信所が建設される事になったのか、様々な理由が存在する。(註4)
 第1に、普通、電報の受付や送受信・配達などは、国内通信網の中心地である東京にて行い、 中央通信所が送受信を自動的に操縦し、直接対手局と通信するのが最適だとされる。それは、 通信の迅速さや正確さ、公衆の便利を図る上で重要な要件だからである。しかし、東京での 1ヵ所集中にした場合、天災等が起きた時に全てが機能を失い、日本における外国電報全部が 休止される恐れがあるため、地理的に天災等を同時に受けない場所が良いとされた。折しも、 送信所建設を決定付けた日本無線電信株式会社法案が通過した2年前の大正12年(1923)、 関東大震災が起き、東京は甚大な被害を蒙った経験から、特にこの点が重要視された。そこで、 その最適地は大阪とされたが、名古屋でもこれらの条件に当てはまる上に、大阪より有利な条件があった。
 それが第2の理由として、長波送信所敷地には、1送信装置だけでも約百万坪の平坦な土地を 必要とする。それに、第2・第3の装置拡張を見込む必要があるため、少なくとも300〜400万坪の 広大で堅固な平坦地を必要とした。この点において、大阪では経済的にも物理的にも建設場所を求める ことが困難であったが、名古屋方面では求めやすかった。
 また、第3として、送信所は1500〜2000キロワットの大電力を必要とする。そして、 その電力は、電圧や周波数にほとんど変化がなく、その上、停電の絶無なる電力線を求める事が技術上の 根本的要件である。その点においても、名古屋は大電力送電線の集中地であったため、優秀な電力を 安価に得る事ができた。
 第4として、欧州対手局(大圏)方向の角度に、依佐美は送信・受信所ともに高い山岳がないため、 電波が遮断され弱められることがない事から通信に適している。
 第5の理由としては、長波時代の技術では、受信所の位置は対手局と送信所を大圏にて連絡 する線に対して、送信所から見て60度以上転位し、約30キロメートル以上離れて、自局の送信電波が 自局の受信を妨害することを避ける事ができる場所であることを必要としたのに対し、依佐美送信所と 四日市の海蔵受信所はこの条件に当てはまったためである。
最後に、第6の理由として、送信所の建設に当たり、多大な労力と運搬を必要とする 事が重要な問題である。この送信所建設に要した延べ人員は約10万人であり、材料は約7万トンにも及んだ。 これらを運搬するための交通が比較的容易にでき、東海道線の刈谷駅から三河鉄道の小垣江駅(註5)に至り、 そこから送信所まで臨時に鉄道を敷設して運搬が可能であったからである。
 以上の理由により依佐美が選ばれたのだが、依佐美村は明治用水を利用して水田にする事が可能だ ったため開墾に熱心であった。そのため、広い水田地帯に住まいが一軒もなく、鉄塔を建てるのにも、 アースを埋めるのにも妨げとなるものが少なく、あらゆる面において送信所建設に適していたといえる。


第3節 送信所建設と地域住民

 もともと、第2節で述べた理由により、対欧無線電信所設立場所の候補選定として、大正11年( 1922)頃から依佐美を第一候補地として実地測量をし、敷地買収も終え、工事着手のための多数の逓信 省官吏が出張してきていた。しかし、関東大震災で政府は壊滅的打撃を受け、国によって成しえなくなった ため、その後設立された日本無線電信株式会社によって再計画が立てられ、政府が先に買収した土地を同社 に出資して、政府の監督援助のもとに工事が遂行された。
 この時の大正13年(1924)7月、依佐美村村長の宮田作次郎は、村民155名と連署して、 逓信大臣であった犬養毅に送信所の道路及びそれに付帯する工事の請負を嘆願している。そして、この年に 逓信省は送信所用敷地として約36000坪の買収を完了した。しかし、2年後に、この無線電信局が 東京付近に移転するという噂が流れた。そのため、依佐美村第3区長の江坂広太郎と第4区長の加藤謙太郎が この噂に対する善後策を村全体として充分に議論するように申し出た。両区長は、依佐美村に無線電信局が 建設されればかなりの収益があると考え、また無線電信局建設の土功請負等奔走のために大字高須で約1000円、 大字半城土で2300円既に出費しており、それらを補填してもなお余裕がある場合と、村としてその収益に ついて村長の石川九郎吉を始め村会議員らで協議した結果、それらの収入は将来、村と関係する大字にて折半する 事とした。こうして、大字高須と大字半城土は送信所建設の誘致に熱心だった。


(対独賠償債権譲渡契約書)

 送信所の建設工事は、昭和2年(1927)に総工費予算金550万円(註6)で着工した。 そのうちの、約112万円の無線機購入費用のうち、23万5147円はドイツからの賠償勘定により(註7)、 送信機及びそれに付随する発電機などの電源装置等をテレフケン社より購入した。またそれに先立って、 建設機材等を運搬するために、三河鉄道小垣江駅から建設現場まで臨時に専用鉄道を敷設する事とし、 同年3月31日付で政府に申請している。そして、4月12日付で愛知県知事の柴田善三郎から鉄道大臣 (註8)の井上匡四郎へ「専用鉄道敷設免許の件副申」が提出された。これにより、5月3日に鉄道大臣 の小川平吉より「昭和2年8月2日迄に着手し、昭和3年3月2日迄に竣功すべし」と回答があったため、 依佐美村地内に専用鉄道敷設が免許された。
 この専用鉄道は、短期間に鉄材・セメント・工事用の諸材料や器具・機械運搬及びこれらに 伴う多数従業員の物資供給に使用し、三河鉄道小垣江駅から依佐美村大字高須までの約2.4キロメートル 敷いた。建設予算は6万2千円で、蒸気機関車によって、日の出・日没間に1日8車両連結を4回運転した。 これらの建築材料・鉄塔材・長波機器等はドイツから神戸港を経て運搬された。
 この鉄道施設工事は、日本無線電信株式会社負担となっている。また、連絡施設として三河 鉄道株式会社の用地を使用するため、使用料も納めていた。これらを取り決めた契約は昭和2年3月に 結ばれ、専用鉄道敷設免許の日から6カ月以内である、昭和2年10月までに工事を実施しない時は、 契約の効力を失うとされていた。そこで、昭和2年5月3日付で専用鉄道敷設免許を得て、その翌日 から工事に取り掛かった。敷設工事は5月19日に完成し、6月15日に高須積卸場構内にて 建設材料運搬の都合により側線の増設を届けている。7月11日に運輸開始が認可され、運転を 開始し、材料等を運搬した。貨車から降ろしたあとは牛2頭によるコロ曳きなどによって搬入した。 そして、これらも9月30日に終わったため、運転を廃止し、鉄道敷設免許を返上し、軌道を撤去した。 ところが、2号機が納期遅れとなり軌道撤去後に到着したため、分解不可能の高周波発動機約22トンは、 10.4キロメートルの距離を人力で約1週間かけ送信所に運び込んだ。
 地元の人々、特に送信所や社宅が建設される高須の人々は、この会社の人達を熱心に歓迎した。 社宅が完成するまでの間の宿泊地がないため、座敷や仏間を提供したり、家族が入る前に風呂に入れ させたりした。独身者には食事や弁当も作った。そして大字の費用で、働く人の事を考えた風呂付の 送信所建設の事務所としての建物を新築した。無線の敷地内に建設事務所が移動した後も、 この建物は臨時の駐在所となった。これらの交流から、無線会社の人と村民とは親しくなり、 会社側もこれらの歓迎にこたえるため、特殊な技術を必要とする仕事以外は地元の人々に 働いてもらうように配慮した。また、無線電信の仕事を希望する者には、会社員となる道も開いた。
 送信所の工事は、アース工事・空中線及び鉄塔工事・送信所本館及び送信室の3つがある。 まず、アース工事は、縦1760メートル、横880メートル、面積154万8800平方メートルの 地域の地下を最低60センチメートルの深さで掘った。縦は55メートル間隔で直径約4ミリメートル、 横は10メートル間隔で直径約2.6ミリメートル硬銅線を網の目状に敷き詰めて、数百本の架空線に接続し、 送信室に引き込んだ。このアース工事に使用した銅線の長さは約188キロメートルもある。つまり、 これだけの距離の溝堀が必要だった。この溝堀作業は稲作に支障の無い冬に行われ、作業者はその土地 の地主か耕作者が選ばれた。それは、田畑共に約30センチメートルの「作り土」というよく肥えた 土の下は「もとやま」という普通は耕さない土となっている。もとやまは粘土質で肥料分も乏しいため、 作り土と混ざる事を農家は嫌った。そこで、土の事をよく知っている地主か耕作者が作業をした。 また、空中線と鉄塔工事は、送信施設建設の中で一番大掛かりであった。この空中線及び鉄塔工事と 送信所本館及び送信室については、次節にて論じる。


第4節 送信所施設の概要及び送信方法

 この送信所の施設として、まず敷地は、局舎と大鉄塔及び数条の専用道路などは社有地であり、 日本無線電信株式会社所有として約4万8300坪ある。その他に約60万坪にわたる空中線敷地を部分的に 借り入れている。そして、送信機は当時の世界有数通信機器メーカーであるテレフンケン会社が設計製作を しており、17442サイクル(註9)(波長17200メートル)の高周波電流を供給し、電力700 キロワットの発電機式でアンテナへ送り出した。発電機はドイツの優秀な電気機械メーカーであるAEG 社製をテレフンケン会社が使った。その電源は、依佐美送信所用に、東邦電力株式会社(註10)の 野田変電所から供給を受けられるように特設した。
 鉄塔の高さは250メートルあり、鉄塔の基部は削った鉛筆を立てたような逆三角形で 細くなった恰好の底部絶縁球状承軸式である。先は球状受軸式になっており、基部と接触する形で つながっている。1辺3メートルの正三角?形の組立鉄塔が4基ずつ2列に並び、全部で8基ある。 この鉄塔組立作業には、日韓併合(註11)下の影響で、韓国・朝鮮人もおり、仕事の取り合いで地 元の人ともめたり、たかり行為もあったという。また、作業による死傷者も出たと言われている。 このような危険が伴う作業でも、仕事いわゆる収入の欲しさに争いがおこったのであろう。鉄塔の 2列間は500メートルの距離があり、メッセンジャーワイヤーで結んで、16条の空中線をかけている。 鉄塔の重さは285トンで、張り巡らされた支線の重さは135トン、鉄塔と支線はガイシで大地と 絶縁されている。そのため、根元から見ると、400トン以上の巨大な建物が宙に浮いているように見 える。しかも、この土台となるガイシは、1個の厚さで250ミリ、100トンの圧力に耐えるといわれ、 鉄塔の3本の脚を48個のガイシで支えている。また、これらの土台となるコンクリートは、矢作川・ 天竜川及び木曽川などの砂利が使われており、ゆっくり固められたため、現在のコンクリートとは 比べ物にならないほど強度や粘りがある。面白いことは、コンクリートに混ぜられた砂利は、 1号機は同じくらいの適度な大きさに揃えて粉砕してあるが、段々といい加減になっており、 8号機では、大きな石のまま混ぜられており、大きさがばらばらであった事である。
 これらの鉄塔8基の建設に要する機材は全て国産品とし、約300トンの鉄塔を 支えるガイシも研究の末、当時の日本技術の結晶ともいうべき素晴らしいものができた。この 250メートルの鉄塔と700キロワットの空中線電力は世界最大規模を誇った。

  
<鉄塔のある風景>

   

         (鉄塔の図)                         (鉄塔の配列図)

 送信所本館と通信室は鉄骨または鉄筋コンクリート建てで、愛知県の建築家が設計した ドイツ風建築様式である。送信に必要な電力は東邦電力株式会社から60サイクル三相三線式交流 3300ボルトのもの最大1000キロワットの供給を受けるものであり、このために送電設備を新設した。

(送信所本館写真)

 送信方法としては、全国の外国電信取扱局で受けた欧州行き電報は名古屋無線電信局に送られる。 これを、電信符号通りに送信テープに鑽孔して無線送信機にかける。そして、名古屋無線電信局と対欧 依佐美送信所の送信機を自動的に操縦して、電波を直接ドイツに向け発射した。約15分でドイツまで 無線が届いた。また、依佐美送信所の通信局名はロンドン・ベルリン・パリ・ワルシャワ・ジュネーブで、 これらもそれぞれ約15分とそれまでの4時間から大幅に迅速になった。
 この送信施設に相対して、欧州からの直接受信を行うために、昭和3年(1928) 受信設備が三重県三重郡海蔵村(註12)に建設された。しかし、昭和11年(1936)、 兵庫県小野町に逓信省大阪無線電信局操縦による受信所が新設されたため、昭和13年にこ の受信所は廃止された。そして、この受信施設の遺構は現在残されていない。
 以上のように、地域住民は依佐美に送信施設を造ることに積極的であり、 誘致運動までしていた。地域住民がこれほど送信所建設に好意的・協力的であったのは、農業のみ に生計を立てていた村民にとって、大工事により農業の暇な時工事現場で働けば貴重な現金の収入 になるからである。また、無線会社が村にお金を納めてくれるため、豊かになり発展すると考えた のである。つまり、これら金銭的な面においての理由が大きかったといえる。しかし、一概に歓迎 していたという訳ではなく、無線電信についての知識が全くなかったため、未知の物に対する不安 や巨大な鉄塔が倒れてきたらという不安もあったようである。


第2章 戦前における送信所

第1節 最初の送信
 本章においては、送信を始めてから第2次世界大戦で日本海軍のものとなる前までにおける、 送信所の働きや、その時代における地域との関わりについて論じていく。
 依佐美送信所の施設は、約10万人の労力を使い、昭和4年(1929)3月に完成し、 同年4月15日にポーランドのワルシャワへ最初の送信をした。ところが、依佐美送信所が完成した 頃には短波による海外通信が始められ、長波の送信設備は短波通信の補助的なものとしてしか使われ なくなっていたため、超長波装置・短波装置各1台で対欧無線通信を開始した。この5ヶ月後には、 海軍により5KW短波無線送信機を1台増設している。昭和3年に名古屋無線電信局として、最初に 大阪無線局から業務を継承した時は受信のみで、相手国はフランス・ドイツ・ポーランドの3国で あった。しかし、この依佐美送信所が完成してから、可能となった逐次双方通信にて、4月15日から ポーランドのワルシャワへ、22日からドイツのベルリンとフランスのパリへと送信業務を開始した。 また、8月10日からイギリスのロンドンと一方的通信を開始した。一方的となったのは、イギリス に良好な長波受信施設がなく、日本においては充分な短波送信機の設備がなかったためである。
 これらのように、日本において依佐美送信所がヨーロッパと最初に無線通信を行った のである。また、4月18日には日本無線電信社長の内田嘉吉も出席して、依佐美送信所開局式が行われた。


第2節 対欧無線送信施設として活躍

 昭和5年(1930)1月から、ロンドンにおいて海軍軍縮会議が行われる事になり、 イギリスとも双方通信を実施するようになった。この時、対イギリス通信用として、RCA製20 〜40KW短波送信機を5台増設している。この対イギリス通信は軍縮会議開催に伴い急激に増加し、 前月の12月に比べ何十倍にも達した。1月21日から4月23日に調印されるまでの会議関係電報は 1054通あり、字数は70万字を超えた。
 同年2月にはフランスとの送信も開始し、国際連盟所在地であるジュネーブとの通信も、 満州事変の国際情勢に鑑み、昭和7年(1932)軍縮会議が開催されるのに先立ち開始した。 しかし、翌年に国際連盟を脱退した事によりジュネーブとの通信は途絶えた。
 昭和10年(1935)、短波需要の増大に伴い、短波専用局舎の新設に着手し、 翌年完成した。昭和13年3月には国際電話との業務内容と共通点が多い事から、国際電話(註13) と合併し国際電気通信株式会社となった。同年に短波空中線用75メートル自立式鉄塔5基、翌年には 短波空中線用85メートル自立式鉄塔5基を新設した。更に短波用に約70本も建てたので、短波送信塔が 合計100本近く建った。これによりヨーロッパの回線相手局も増やしていき(註14)、中国及び 東南アジア各地との通信も行った(註15)。この頃には、海軍が長波機及び短波機3台を作戦用と して直接使用し出した。また、更に東南アジア方面での回線相手局も増やしていった。(註16)
 以上のように、建設以前の通信は超長波(註17)が主力であったが、開局以降は次第に 短波が主力となっていった。電波は波長が長くなるほど地表に沿って伝播する性質を持ち、地球の裏側にも 届くが、電波が拡散してしまうため大電力を必要とする。そのため、電力も超長波機が2000キロワット 必要なのに対し、短波機は80キロワットで足りる上(註18)、超長波機の設備は500万円もしたのに対し、 短波機は鉄塔1基30万円でできるためである。このような短波への移行は建設時から分かっていたのにも 関わらず、長波の施設を建設したのは、官僚主導政治の体質により、一度官僚が長波施設を造ると決めた 事をくつがえせなかったためであろう。
 また、この時代における地域との関わりについては、昭和4年(1929) 「依佐美村対欧無線電信局後援会」が「對欧無線電信局依佐美送信所盾ヘがき」を発行し、 お祝いの意味をこめ、この地方ではじめて気球が揚げられた。そして、刈谷だけでなく、 半田や安城など近隣市町村の小中学校の見学が行われた。その他、送信所完成の翌昭和5 年9月、送信所はできたものの特に利益がなかった住民との問題を恐れた依佐美村は無線後 援会を発足させた。しかし、当時東洋一の高さを誇っていたこの鉄塔は、小学校の教科書に も載り、誇りを持っていた地域住民が多かったようである。


第3章 戦中における送信所

第1節 対潜水艦通信施設として活躍

 本章においては、第2次世界大戦中における送信所の働きと、真珠湾攻撃の 暗号との関わり、そしてこの時代における地域住民との関わりについて論じていく。
 昭和16年(1941)、第2次世界大戦への参戦に伴い、この依佐美 送信所は旧日本海軍が操縦することになり、超長波(註19)は主に対潜水艦通信に 活躍した。超長波が水中でも進むという特性に注目されたからである。そして、この 超長波である17442サイクルを全潜水艦が開戦までに受信可能になるように装備した。 依佐美送信所の送信機を、東京通信隊(註20)から直接管制して実施した。超長波受信 の実績としては、太平洋全域においては通達良好で、ハワイ方面では深度15〜17 メートルまで通達可能であった。アメリカ西岸海域では約1メートル少なかったが、 インド洋方面では一般的に不良であった。また、送信所本館屋上には銃座が設置され、 空襲に備えたりした。
 これらは、戦争時に潜水艦の太平洋での行動を想定して、第2次世界大戦が 勃発した昭和13年には準備していた。そして、送信機は潜水艦作戦専用として海軍省内 でキーを叩くと、作動するシステムとなっていた。
 この電波は戦時中、対潜水艦用として全幅活用された。特にハワイ方面米艦隊の 監視と奇襲の任務を帯びて潜航前進中の先遣部隊であった第6艦隊所属の17隻の潜水艦( 特別攻撃隊を含む)は、作戦行動中必ず待ち受けすべき各潜水戦隊内用電波のほか、 この超長波電波を当直電信員が一方の耳に待ち受け、専用電波に着信のある場合以外 でも常に待ち受けし、潜航中など受信洩れがある時もこの電波でカバーできた。また この電波は完全な放送用としても使用され、一潜水艦が発信したものをこの電波に 乗せて何回か繰り返し放送した。そのため受信洩れが皆無だった。
 しかし、昭和19年(1944)4月に空中線の一部が戦禍を受けたために、 終戦後の昭和22年5月、空中線は断線の恐れもあるため鉄塔を除いて全て撤去された。 そして、昭和20年(1945)終戦となり、通信業務は在外部隊との連絡以外は途絶えた。


第2節 「新高山登レ」の暗号との関わり

 昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃にて太平洋戦争が勃発した。その真珠湾攻撃 命令の暗号である「新高山登レ1208」と依佐美送信所との関わりについては、以下のようである(註21)。 ちなみに、新高山とは、当時日本の支配下にあった台湾の最高峰「玉山」(註22)の日本名である。 真珠湾攻撃の暗号文、12月8日に武力発動せよという意味の「新高山登レ1208」は、 通信文は戦務参謀渡辺中佐が作成し、本文は真珠湾奇襲をめざし機動部隊が既に太平洋に出動していた 「長門」から、山本五十六司令長官が上京中であったため、代理に宇垣参謀長が打電命令を出し、 12月2日17時30分に打電された。

(連合艦隊旗艦長門発信電文)

「長門」はこの時、安芸灘の柱島泊地に在泊中の連合艦隊旗艦として、電信室の電信機から、 有線で東京霞ヶ関の海軍省構内にある東京通信隊へ送信し、地下ケーブルでつながれている 同通信隊所属の船橋送信所の大アンテナから、中央放送通信系通信電波として規定されて いるキロサイクルの短波と長波によって、連合艦隊各艦艇宛に放送された。 その際、真珠湾奇襲のため編成された先陣部隊として特殊潜航艇を乗せて潜航して いる第6艦隊所属の第1・第2・第3潜水戦隊ほかの潜水艦に対して、この依佐美送信所の 超特大アンテナを管制した超長波に乗せて放送された。 この依佐美送信所にて暗号を打電したとの説もあるが、当時この送信所には打電装置が 存在しなかったことから、このように中継したといえる。 以上のように、戦時中においては日本海軍が操縦し、対潜水艦用として送信所施設は 戦争に利用された。そのため軍の機密保持という閉鎖的姿勢や、戦争における国民全体の 混乱の中において、地域住民との深い関わりは特に無かったと考えられる。ただ、 昭和19年(1944)、高須町の男性が感電死するという事故が起きている。


第4章 戦後における送信所

第1節 在日米海軍基地となる

 本章においては、第2次世界大戦後、在日米軍に供与されていた時代における、 送信所の役割と地域住民との関わりについて論じていく。
 昭和20年(1945)8月の終戦直後は、無線塔は1〜2カ月間、在外部隊と の連絡に使用されたが、それ以外は全て途絶した。国内通信用として、広島・松山の2回線が 一時開設されたが、昭和21年に閉鎖され、その後ロンドン・パリ及びコロンボと通信した事も あったが、昭和22年5月、短波送信業務が日本政府(逓信省)に移管され、長波関係諸施設は 国際電気通信株式会社に残留し、徐々に整理されアンテナ線16条が撤去された。
 昭和23年には占領軍から解体命令が出され、全ての短波施設が移設または撤去され、 長波施設も解体撤去の運命となった。つまり無線塔も解体する事となったが、特殊な建造物で あるため、解体や運搬にかかる巨大な費用の問題もあり、処分方法を決めかねていた。 そうしているうちに、局舎や機械などがよく保存されていたため、昭和25年(1950)4月、 今度は解体中止命令が出され、アメリカ海軍の原子力潜水艦への通信施設として使用される こととなった。そして、この施設を維持管理するために国際電気通信の第2会社である 電気興業が設立され、保守運用にあたった。同年6月、アメリカRCA社の設計で長波 施設の釣架線を修復し、アンテナ線16条と赤い航空障害灯が設置され、米軍の極東に おける最重要通信施設として使用する事になった。この赤い灯が地域住民には夜の方角の 目印となったのである。昭和27年(1952)3月に工事は完了し電波発射試験が行われ、 5月から在日米海軍が使用し始めた。つまり、施設は電気興業のものであるが、これを 日本政府が借り受け、米軍に供与するという形となった。この年から撤退するまでの平成8年 (1996)まで、日米安全保障条約(註23)に基づき、米軍に代わって防衛庁が土地の 借料や使用料を負担した。在日米海軍通信隊の常駐は隊長(中尉)以下30名おり、 保守運用を1年契約で受け持つ電気興業の日本人従業員は67名であった。昭和29年 (1954)には残っていた短波鉄塔が全て撤去され、8基の巨大な無線塔のみが残された。 昭和32年(1957)に在日米海軍通信隊は撤退したため、保守点検は電気興業に 全面的にまかされた。
 操縦は、在日米海軍の横須賀基地から行われ、米国製短波受信機を備えた。 米海軍の戸塚送信所からの短波による操縦信号を同時に受信し、マイクロ回線障害時に 切り換えられるようにしていた。そして、横須賀基地の潜水艦司令部から攻撃命令や 気象情報などを潜水艦に伝えていた。米潜水艦には、超長波受信のために、長さ 3000メートルと1700メートルのアンテナを船尾に装備していたという。 冷戦時代には、原潜水艦の弾道ミサイル発射命令伝達に使用される恐れがあった。 在日米海軍通信隊撤退後は、月2〜3回、横須賀米海軍基地から視察が来た。 昭和38年(1963)1月に、依佐美出張所から依佐美通信所と名称が変更した。 翌年8月には地元民対策として、オープンハウスと言って、米軍により構内が一般公開され、 盆踊りやバンド演奏などが行われた。このオープンハウスは平成5年(1993)に 2回目が行われ、この時に初めて米軍潜水艦への通信が確認された。昭和43年(1968)、 航空法の規定により標識塗装され、それまでの亜鉛メッキのみの無塗装から、紅白11層に塗られ美しい景観となった。
 その後も、通信量の増大や技術面に対応すべく設備等を改善・改修・取替ていき、 在日米海軍に使用されていた。太平洋を中心に展開する米戦略ミサイル原潜に、 有事の際指令を与える極めて重要な役割を持つ送信所として、また潜水艦に 核兵器発射命令ができる施設として存在した。そして、平成3年(1991) 湾岸戦争勃発により、依佐美送信所から潜水艦トマホークに指令が出されたと言われている。 また、無線塔の周囲をパトカーが警護し、その下で農作業する人たちの身元まで調べるという厳重さであった。


第2節 反基地・反戦平和運動のターゲットになる

 ここ依佐美送信所は、反基地運動や反戦平和運動のターゲットとなりデモが起こった。 昭和36年(1961)、愛知県平和委員会副会長の小岩井多嘉子が依佐美基地の危険性を告発した。 そして、昭和38年に米原子力潜水艦が横須賀基地に寄港するのを契機に、 初めて依佐美基地撤去の集会とデモが行われた。更に昭和42年(1967)、 「ベトナム侵略戦争への協力・加担を裁く名古屋法廷」において、初の依佐美基地本格的調査に 基づきその危険性が告発された。
 また、電圧2万ボルトの鉄塔において感電事故が発生した。昭和40年(1965)、 小学1年生の児童が第3鉄塔で感電事故を起こし、昭和45年(1970)から3年連続で 1件ずつ鉄塔での感電事故による重傷や死者が出たため、撤去を訴える依佐美集会が昭和47年に開かれた。 翌昭和48年3月には、刈谷平和委員会串田英一ほか160人が「依佐美通信基地撤去に関する請願」として、 依佐美通信基地が市南部地域の発展を遅らせ、地元住民の生活と安全を脅かし、市民全体に大きな不安を 与えており憲法第9条に違反するものであるので、政府に対し早期撤去を要求する意見書を提出された いという趣旨のものを刈谷市議会は受理したが、同年12月に不採択となった。依佐美送信所は 事故防止策として、鉄塔内に入りにくくするため、内柵の高さ2メートルの金網以外にその入り口に鍵をかけ、 立ち入り禁止の看板も掲げ、高さ1メートルの外柵に有刺鉄線を設けた。 ところが、昭和51年(1976)、神戸の小学2年生が感電死するという事故が発生した。この事故により、 愛知平和委員会が基地に抗議をし、愛知平和委員会副会長でもある田中美智子代議士が基地内へ立入調査し、 国会で追求をした。また、県平和委員会、刈谷市平和委員会、安保阻止実行委員会、原水協がビラの 全戸配布と市民宣伝を行った。この他、抗議集会が開かれたり、安全対策について市議会で取り上 げられたりした。しかし、このような厳重な柵を乗り越えて感電死していることから、小学2年生が 自分で入り込むのは無理ではないかと思われ、当時から地元では事件性も高いと言われていたが、 事故として簡単に処理されている。この事から、米軍基地となっていたため、ある種の圧力や 治外法権的なものが存在したのではないかと私は推察する。この事故によって、鉄塔に対し 怖いという印象をもった地域住民も多い。また、この事故を契機に送信所の警備は厳重になり、 鉄塔の外柵を更に高くした。ちなみにこの事故は、名古屋地方裁判所は国の管理の落ち度として、 昭和57年(1982)損害賠償として900万円支払う判決を下したが、国が控訴したため、 平成元年(1989)名古屋高等裁判所は1審を無効とし、無罪とした。
 昭和53年(1978)、中日本平和研究集会の180人が依佐美基地でデモと集会を行い、 昭和57年には、安保破棄県実行委員会や県原水協が野田公園で「2.21依佐美集会」を行い 800人が参加した。最も大きな運動として、昭和59年(1984)原水協・日本平和委員会に よって「トマホークくるな人間のくさり依佐美大行動」と称して、11500人が依佐美基地を 取り囲み、気勢を挙げた。これは日本初の本格的な「人間の鎖」行動であり、「人間の鎖」 による依佐美送信所撤去運動は昭和62年、平成4年にも行われた。また、全斗煥韓国 大統領訪日に反対する過激派が構内に侵入し、時限発火装置を使い倉庫を焼失するなど、 反基地運動や返還運動が続けられた。 しかし、一般住民が自主的にこれらの運動を活発に行ったとは考えられず、他の土地に おいても一般的にこういう運動を起こしている社会党や共産党が主導していたと考えられる。 地域住民はどちらかというと騒動がかえって迷惑だと感じたり、静観している人の方が 多数を占めており、特に補償金をもらっていた人々は、そのお金で生活していた人もおり、 鉄塔施設を歓迎していたと言っても過言ではないと思う。しかし、それを好戦派と誤解 されて受け取られ、刈谷市民の中でも摩擦があったと思われる。


第3節 米軍基地時代における地域

 終戦直後から、米海軍に利用されるまでの電気が流れていなかった数年間は、刈谷中学 (註24)の生徒を中心とした地元の特に若い男性が、高さ250メートルの鉄塔に登っていた。 そして、この鉄塔を登ることが大人になる象徴であると言われた時期があった。頂上までの 1000段にも及ぶ垂直な階段を40分で登ることを競ったと言う。頂上からは富士山も 見えたと言われ、数百人の人がこの無線塔に登った。 また、終戦直後は送信所勤務の者は仕事がなく、食糧難に喘いでいたため、構内空地の開墾や余 剰電力を利用して製塩所を作るなどし、当座の生活をしのいでいた。 昭和34年(1959)、鉄塔のすぐそばに小学校を建設する事になり、地元の野田町住民が 市役所で座り込み反対したが、県機動隊など80人が出動し、強制排除を行い12人が検挙 された。しかし、石田退三を仲介役とし、住民と市とで平和交渉をし、石田調停案を野田側と 市当局が受け入れ、検挙者は釈放された。このような騒ぎがあったのにも関わらず、この年、 依佐美の鉄塔が「刈谷八景」の1つに選ばれた。 昭和33年(1958)、日米安全保障条約に基づく沖縄の米軍基地での補償金制度を知って から対策委員会を設け、ここ依佐美でも補償金がもらえるのではないかと防衛庁に申請した ところ、鉄塔から500メートル以内に土地がある人に国から分配される事となった。これは、 もともとそこに土地を持っていた人のみで、全体の補償金をその土地の持分に応じて分配した。 この補償金に関するトラブルをなくすために、昭和35年(1960)地元では補償組合を 作った。地元の農家ではアース線木柱支線のために農作業に多大な労力を費やし、空中線に鳥 がとまったり集まったりする事から鳥害にもあっていたようである。この補償金制度は、 必要がなくなった時には一方的に断ち切られるという契約になっていた。ちなみに、米軍から 返還される直前における最後の補償金額は3億8688万9337円であり、累計補償金額と しては約41億円にものぼった。対象面積は123ヘクタールであった。この補償組合は平成9年 (1997)5月に解散したが、解散時の組合員は540人であった。 また、送信している時は、地域住民のテレビ画面に横線が入るという障害が出ており、 特に湾岸戦争時には頻繁に障害があった。 しかし、平成元年における刈谷市民への「私の好きな風景」アンケートでは4位に入り、 新刈谷八景に選ばれた。その他にも、双葉小学校の校歌や刈谷小唄に歌われたり、 市民文化活動における市民の絵画や写真の作品展には必ず依佐美の鉄塔風景が画題、 被写体として選ばれた。 これらから、戦後、送信所は在日米軍基地となり、反戦平和運動のターゲットと なるなど、騒々しいことや感電事故などがあったものの、鉄塔は地域住民にとっては 親しみを持ち、身近で存在感のある風景だったといえる。そして、既に鉄塔はそこに 存在していて当たり前であり、特別なものとも思わなくなっていたと考えられる。


第5章 送信所返還

第1節 米軍が返還した理由
 本章においては、在日米軍が依佐美送信所施設を返還した理由及び返還後に たどった送信所施設の変遷、また返還後から現在に至るまでの地域住民との関わりに ついて論じていく。
 東西冷戦の終焉と共に、米海軍はこの依佐美送信所を使用する意義が失われたと 同時に、戦略原潜水艦が日本近海にいなくなったことや、オーストラリアなど他の通信所の 電波で機能をカバーし通信施設が充実したこと、日本が負担してきた経費を別の目的に 充当するのを理由として返還したと考えられる。また、アジア・オセアニア地域担当の 第7艦隊が作戦支援に超長波を送信施設として使用していたが、戦略の見直しと国際 政治情勢の変化とともに不要となったと、横須賀の在日米海軍指令部が公式に平成8年 (1996)10月に回答している。平成5年(1993)8月1日に送信を停止して いたが、それが明らかになったのは10月8日である。翌平成6年8月1日、星条旗が 降ろされ日本に全面返還し、翌日には「在日米海軍通信隊」の看板もはずされた。 それに伴い送信所の施設も撤去の方向へ進み、平成7年11月から空中線及びコイル ハウスの撤去作業を始め、アンテナ線は既に外されていた。
 このように速やかに返還されたのは、日米安保条約に基づく地位協定に おいて、米軍に提供している施設・区域は、必要でなくなった時はいつでも返還し なければならないと明記されているため、その協定に従ったためである。
 そして、平成8年(1996)7月より鉄塔の全面撤去が行われることと なり、平成9年(1997)3月、全ての鉄塔は解体撤去された。しかし、鉄塔はなく なったものの、依佐美送信所本館と送信室、内部の送信施設は残されている。

(返還時の写真)


第2節 鉄塔撤去にあたって

 既に米軍から返還され電気が流れていなかったため、鉄塔撤去が決まって からというもの、内緒で鉄塔に登った人たちがいた。また、送信所に対する関心が 高まり、中日新聞が送信所に関する記事を連載したり、撤去直前の平成8年(1996) 5月には産業考古学会が「産業考古学会推薦産業遺産」の認定をした。1月には、 鉄塔のすぐ脇に住んでいた地元の芸術家、内藤文男が、鉄塔のそびえる田園風景の中で 「鉄塔供養ライブコンサート」を催し、6月には「鉄塔ブルース」という写真展を開いた。 また、地域住民達が依佐美送信所を見学し、送信所に関する講演会も開かれた。 その他にも刈谷市のホームページに「無線の鉄塔」を載せ、ケーブルテレビが放映し、 刈谷市児童作品展で無線塔をテーマにし、第5号塔側の朝日中学校が郷土体験学習で 無線塔を取り上げ、送信所本館側の双葉小学校は無線塔の作品を作った。
 そして、6月28日には、鉄塔撤去工事の安全祈願を送信所が行い、 翌日、双葉小学校の「親子ふれあい学級」という行事にて数百名の親子の見学を 受け入れ、地元の人でも生まれた頃から外観しか見られなかった送信所に入る事ができ 、親が感激していたようである。
 平成8年(1996)8月2日から東側の奇数塔がエレクター工法で 7号塔から、8月5日から西側の偶数塔がジャッキダウン工法で8号塔から解体工事が 始まった。エレクター工法とは、頂上から8メートルずつ切断してクレーンで釣りお ろす方法で、ジャッキダウン工法とは、基底部に巨大なジャッキを設備して下から 8メートルずつだるま落としのように解体する方法で、このように高い建築物では世 界で初めての試みであった。ところが、8月29日の正午少し前、ジャッキダウン 工法解体工事中で高さ200メートル程になった8号塔が突然倒壊した。原因は解体 工事方法にあり、鉄塔を支えているワイヤーが切れたためにバランスを崩し、東側に 折り重なるようにして倒れたのである。この事故により死者が1名、重軽傷者が4名出た。 このジャッキダウン工法では、解体作業当初から地域住民の間ではバランスが保てる のか不安の声が上がり、事故前より既に鉄塔が傾いていたとのことである。また、 民家が一番そばにない8号塔よりこの工法にて行っていることから、実験的にやって みたかったという思惑が感じられる。 この事故により解体工事が一時中断したが、その間、事故見学の車の往来が激しく、 地域住民は非常に迷惑したとともに、順調に作業していた7号塔の解体もやりかけで 中断したため、不安であったようである。その後、検討の末ジャッキダウン工法は 取りやめ、10月1日からエレクター工法で再開し、平成9年(1997)3月4日 に全ての鉄塔が撤去された。

  

(ジャッキダウン工法)

  

(エレクタ−工法)

 

(鉄塔倒壊事故の写真)

 この鉄塔の保存を望む声に、平成9年2月に刈谷市は2号塔跡地に高さ25メートル のミニチュア建設を決め、平成11年3月に完成した。また、半城土の願行寺は、鉄塔のアンテナ を溶解した「平和の鐘」を作り、これも平成11年3月完成した。平成9年5月には、鉄塔が そびえていた依佐美地区の区長達で構成された「南部会」が、送信所にて「依佐美送信所想い 出写真・絵画展及び施設見学会」を開いた。この展示会に延べ4400人もの人が訪れ、 鉄塔について思い出を話す市民たちの姿が見られた。

(鉄塔ミニチュア写真)


第3節 鉄塔撤去後の現在について

 鉄塔があるのが当たり前の風景の中で生活していた地域住民の方々に、 鉄塔がなくなった現在における鉄塔に対する想いについて、鉄塔が建っている時に どう思っていたかと、鉄塔がなくなった今どう思っているかについて簡単な アンケートを取った。 このアンケートは、主に私が勤務している会社内での地元の方(註25)や友人、 鉄塔があった場所近くの住民の協力を得た。

(アンケート用紙)

<送信所アンケート>

突然ですが、お願いがあります。 現在、卒業論文のテーマにて刈谷の依佐美送信所について調べています。 (2年前まで建っていた、あの高い依佐美の鉄塔の事についてです) あの鉄塔と地域住民との関わりという視点でも考察したいため、あの鉄塔をよく見て 生活していた方たちに、簡単なアンケートをお願いしたいと思っています。 1人でも多くの方の意見を聞きたいので、どうぞ宜しくお願い致します。 質問は、以下の2点です。

1. 鉄塔が経っていた時、鉄塔を見てどう思っていたか。 又、鉄塔にまつわる思い出やエピソードなど感想があったら、それもお願いします。
2. 鉄塔が撤去された現在、あの鉄塔に対してどう思っているか。
(すっかり忘れたという意見でも構いません)
できたら、統計を取りたいと思っているので、年齢が何十代かと性別もお願いします。

回答例
1. あんな高い塔が建っていて危険だと思っていた。
2. なくなってみると、殺風景な漢字がして、少し淋しい。
(20代・女)

という風に、簡単で結構ですので、ご協力をお願い致します。

<回答>
1.
2.

(アンケート結果)

質問1 鉄塔が建っている時どう思ってたか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10代

20代

30代

40代

50代

60代

70代

合計

方角の目印

 

3

1

4

3

2

 

13

鉄塔を見て帰ってきたとホッとした

 

1

2

2

3

 

 

8

危険

 

 

2

1

1

1

 

5

戦争時まず攻撃されると心配

 

1

2

2

 

 

 

5

当たり前の景色で何も思わず

 

2

1

1

 

 

 

4

町のシンボル

 

1

 

2

 

 

 

3

特に関心なし

 

 

1

 

1

1

 

3

避雷針代わりで落雷の心配なし

 

 

 

 

1

 

1

2

場所で鉄塔の見える数が変わり楽しむ

 

2

 

 

 

 

 

2

冷戦時代の怪電波を発射してただろう

 

 

 

 

1

 

 

1

赤いランプ点滅が唯一のネオンサイン

 

 

 

 

1

 

 

1

アマチュア無線仲間の自慢のタネ

 

 

 

 

1

 

 

1

一度登ってみたい

 

1

 

 

 

 

 

1

感電死した子がいて恐い

 

 

1

 

 

 

 

1

近くで見ると不気味

 

 

 

1

 

 

 

1

戦争の名残を身近に感じた

 

 

 

 

1

 

 

1

壮観な眺め

 

 

 

1

 

 

 

1

不用なもの

 

1

 

 

 

 

 

1

登るなとよく注意された

 

1

 

 

 

 

 

1

外国人が沢山いると思った

 

 

 

1

 

 

 

1

何で幾つも建っているか不思議

 

 

1

 

 

 

 

1

戦争で使われてた為複雑な気持ち

 

 

 

1

 

 

 

1

 

0

13

11

16

13

4

1

58

 

質問1、鉄塔が建っている時どう思っていたか?

質問1、鉄塔に対して

 

どちらかといえば好意的

31

どちらかといえば否定的

15

どちらでもない

12

 

質問1、鉄塔が建っている時どう思っていたか?



 

質問2 鉄塔がなくなってどう思ったか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10代

20代

30代

40代

50代

60代

70代

合計

淋しい

1

5

2

4

2

1

 

15

特に何とも思ってない

 

1

3

1

2

1

 

8

目印がなくなり方向が分かり難く淋しい

1

1

2

 

1

2

 

7

スッキリしてよかった

 

1

1

1

1

 

1

5

危険物がなくなり安心

 

 

2

1

 

 

 

3

違う場所みたい

 

 

2

 

1

 

 

3

残して欲しかった

 

 

 

2

 

 

 

2

他に役立つ事はなかったのか

 

 

 

1

 

 

 

1

冷戦終焉と共に米軍のリストラ

 

 

 

 

1

 

 

1

避雷針がなくなり不安

 

 

 

 

1

 

 

1

ミニチュアの高さが低すぎる

 

 

 

 

1

 

 

1

ミニチュアで戦争を後世に語り継げる

 

 

 

 

1

 

 

1

田んぼの税金が高くなった

 

 

 

1

 

 

 

1

補償金がなくなり淋しい

 

 

 

1

 

 

 

1

懐かしい

 

 

 

1

 

 

 

1

空が広く見えるようになった

 

 

 

1

 

 

 

1

淋しい反面無くなってよかったとも思う

 

 

 

 

1

 

 

1

自分の体の一部が欠けたよう

 

 

 

1

 

 

 

1

合計

2

8

12

15

12

4

1

54

質問2、鉄塔がなくなった今どう思っているか?

 

質問2、鉄塔がなくなった今

 

どちらかといえばあった方がよかった

33

どちらかとえばなくなってよかった

9

どちらでもない

12

 

質問2、鉄塔がなくなった今どう思っているか?

 このアンケートの結果から、鉄塔が建っていた時は、方角の目印としていた人が最も多く、 全体の4分の1近くを占めている。また撤去後の今、あの鉄塔に対してどう思っているかという質問に、 なくなって淋しいという意見が4分の1以上を占めている。全体的に見ても、鉄塔に対して好意的に 思っている人が半数以上を占めていることが分かる。
 この鉄塔は、地域住民にとっては、そこにあるのが当然であり空気のような存在で あったといえる。また、補償金を貰っていた人とそうでない人とでは、それで生活をしていた 人もいたことから金銭的な面も含めて鉄塔に対する想いも違っているといえる。しかし、 戦争などの軍事目的に使用された歴史を振り返ると、単純に鉄塔を歓迎すべき施設と思って いるわけではなく、複雑な思いが絡み合っている。
 前述した内藤文男は、撤去時に廃棄物となった土台のコンクリートを研磨して、 鉄塔への想いを込めた石の芸術品をたくさん生み出している。 平成11年、10分の1の高さである25メートルのミニチュアが2号塔跡地に造られた。 このミニチュアについては、地域住民にとっては賛否両論に分かれている。賛成派は、 ミニチュアとしてでも後世に何らかの形で伝えられるという意見であり、反対派は、 建設時は東洋一の高さを誇ったあの鉄塔が、たったの25メートルではただのオモチャの ような物であり、恥ずかしいという意見である。鉄塔撤去が決まった当初は、 デジタル放送基地として、1000メートルという世界一のタワーを造る計画が 持ち上がったがすぐにその計画は消え、刈谷市が記念館を造る計画があったが、 それも現在は白紙状態である。
 以上のように、送信所の返還から鉄塔撤去に至るまで、鉄塔解体事故があった 以外はスムーズに行われた。しかし、今までそこにあったのが当たり前であった 鉄塔がなくなると知ってから、地域住民は、その鉄塔の存在感にはじめて気付き 、鉄塔とは自分にとってどういう存在であったのか、また鉄塔そのものの役割は何で あったのかなどを認識する機会になったと考えられる。


おわりに

この依佐美送信所、特に鉄塔に対しては、建設前から現在に至るまで、ほぼ一貫して、 地域住民にとっては町のシンボルとして、また労働や補償で金銭を得られる手段として など、様々な理由で好意的に受け取っていたといえる。それどころか、地域住民の協力 なくしては、建設当時貧しかった日本において、2年余りの短期間で世界に誇る無線 通信設備はできなかったであろう。この送信所によって経済的に潤い、地域が大きく 発展したのも確かである。 また、日本のデンマークといわれる田園風景が広がる中にそびえ立っていた鉄塔は、 戦争に使われ、米軍基地となったという複雑な歴史を持ちながらも、地域住民に とっては生まれた時からそこにあったのが当たり前の心象風景、刈谷を象徴する 風景となっており、ある種の親しみを感じていた。それが故に、鉄塔が撤去され 3年が経過した今となっても、何となく淋しいだとか、何だか違う場所に感じているといえる。 この鉄塔や送信所本館を産業遺産という角度から研究した中部産業遺産研究会は、 産業考古学会の推薦産業遺産として申請し、電気通信設備、建築物などの専門家から なるメンバーのもと、歴史的資料と現況の記録保存のため調査した。確かに、 通信技術が発達した現在において、この依佐美送信所のような巨大な通信設備が つくられることはないであろう。そう考えた時、あの依佐美の鉄塔を通信技術などの 産業・文化としての遺産のみでなく、平和への歴史として、そして何よりも郷土の 象徴物や遺産として、何らかの形で遺せなかったのかと残念に思う。 鉄塔は無用の長物で危険だからと撤去された。しかし、不要になったら何でも どんどん棄てていっていいのだろうか。それならば、生産物はいつか全て不要となり、 廃棄物だらけになってしまうし、それらの物に込められた人としての想いもどんどん 捨て去られ、それらの想いの行き場所や存在した証はどうなってしまうのか。そう考えた時、 同種の施設はドイツにおいても現存するものはなく、世界的に見ても貴重な遺産であるため、 せめて送信所本館及び残された送信施設だけでも、このまま保存していってほしいと願う。 しかし、この依佐美送信所及び付随施設を戦争における象徴物の一つとして捉えた場合、 この卒論作成にあたって地域住民の方の協力を得ながら感じた事は、ごく身近に米軍基地があり、 複雑な歴史をある程度知りながらも、それらを口にすることは少なく、ただ単に一つの 建築物や目的物として見ているのみで、それが故になくなった今、ただ方角が分から ないだとか淋しいと感じている人が多い様に思った。それどころか米軍基地である ことすら知らない人もおり、自然に目に飛び込むだけの建築物以外に何の関心も持って いない人も多いと感じた。 また、戦後、送信所の保守運営をし、現在も民間企業として存続している電気興業からは、 送信所本館のある刈谷でも、本社においてでも(註26)、既に本として出版していたり、 刈谷市図書館に寄贈して公開している史料以外は見せられないと言われた。これは、 刈谷市が記念館を造ろうと史料を電気興業に求めた時も、同様の回答だったようである。 このことから、戦時中の史料公開拒否などが未だに行われており、同じ敗戦国である ドイツと比べ日本は戦争について正面から向き合っていないのではとも感じた。ドイツでは 戦争の歴史に真正面から向き合い、未来への教訓にするため、公開や教育に熱心であり 戦争を風化させないための記念碑築造などにも積極的である。それに対し、日本では 戦争についての史料は覆い隠して公開せず、戦争が侵略だったということで教科書検定で もめたりしているくらいであり、本当の意味での戦後は終わっていないといえる。戦争に 対して一種の無責任さや曖昧な態度を取り続けたまま、55年という月日だけが流れ、 戦争の重みや平和のありがたさも考えず、憲法9条の改正が叫ばれたり、そうしたこと に対する若者の無関心や好戦的な姿勢に日本の将来に対して危惧を覚えるのである。

以 上


 

依佐美送信所年表

大正10

1921

対欧無線電信所の第一候補として碧海郡依佐美村が挙げられる

大正12

1923

8/ 依佐美村村長、宮田作次郎が村議会で長波送信所誘致を議決

大正13

1924

7/1 村長宮田作次郎ら村民155人が送信所工事請負嘆願書を逓信大臣犬飼毅に提出

大正14

1925

2/ 第50帝国議会で「日本無線電信株式会社法案」が両院を通過

 

 

10/1 半官半民の「日本無線電信株式会社」設立、逓信省が監督官庁

 

 

12/ 逓信省が依佐美村に送信所、三重郡海蔵村に受信所を建設することを決定

大正15

1926

8/19 送信所が東京へ移転する噂により、依佐美村、村長石川九郎吉が存置を請願

昭和 2

1927

1/ 依佐美村無線電信局期成同盟会発足

 

 

2/1 依佐美送信所建設着手、アース線び埋線工事開始

 

 

2/ 三河鉄道小垣江駅から高須まで臨時専用鉄道敷設契約

 

 

5/ 依佐美送信所と海蔵受信所の地鎮祭挙行

 

 

5/3 臨時専用鉄道敷設に鉄道大臣の大川平吉の認可下りる

 

 

5/19 臨時専用鉄道完成

 

 

7/11 臨時専用鉄道による輸送を開始

 

 

12/ 小垣江駅から貨物用の引込線の敷設免許期間満了、以後コロで資材運搬

昭和 3

1928

1/ 無線塔工事着手

 

 

3/31 海蔵(四日市)受信所を竣工

 

 

5/ 名古屋郵便局内に依佐美送信所と海蔵受信所を操縦する名古屋無線電信局設置

 

 

6/ 依佐美送信所に8本の無線塔完成

 

 

8/15 計16本のアンテナが取り付けられる

昭和 4

1929

3/31 依佐美送信所本館を竣工

 

 

4/15 長波装置、短波装置各1台でワルシャワへ逐次双方通信にて送信業務開始

 

 

4/18 依佐美送信所開局式(内田嘉吉社長出席)

 

 

4/22 ドイツ・フランスへ逐次双方通信にて送信業務開始

 

 

8/1 ロンドンからの受信業務開始

 

 

依佐美村対欧無線電信局後援会発足、後援会が送信所の絵葉書写真を発行

昭和 5

1930

1/ RCA製の短波送信機5台増設

昭和 6

1931

3/20 文部省『尋常小学校地理書 第一』に名古屋無線電信局を掲載

昭和 9

1934

6/1 イタリア・ローマとの双方向通信開始

昭和11

1936

11/ 短波需要増大に伴い送信所南方1kmの場所に短波専用局舎新設

昭和13

1938

現依佐美中学校の南北の場所に高さ75mの短波空中線用自立式鉄塔5本新設

 

 

3/ 日本無線株式会社は国際電話と合併し国際電気通信株式会社となる

 

 

11/ 大阪無線電信局の受信所新設に伴い四日市(海蔵)受信所を廃止

昭和15

1940

高さ85mの短波空中線用自立式鉄塔を更に5本新設、また木柱約70本林立

昭和16

1941

長波は日本海軍対潜水艦用となり、短波の一部を含め日本海軍専用となる

 

 

12/2 真珠湾攻撃の暗号「新高山登レ一二〇八」を中継

昭和18

1943

空中線の一部が戦禍を受ける

昭和19

1944

7・第8鉄塔間の空中線支持策が墜落

昭和21

1946

短波空中線用自立式鉄塔のアンテナ一部を撤去

昭和22

1947

2/ GHQから無線塔解体命令、国際電気通信会社解散

 

 

4/ 無線塔本体以外の空中線16条を撤去

 

 

5/ 長波関係施設を国際電気通信に残したまま、短波送信業務を逓信省に移管

昭和25

1950

4/ 占領軍から無線塔の解体中止命令、通信施設を米国が接収

 

 

6/1 国際電気通信の第2会社、電気興業株式会社が設立され保守運営にあたる

昭和26

1951

5/ 在日海軍がアメリカRCA社設計で無線塔空中線を改修、赤い航空灯をつける

昭和27

1952

4/1 無線塔釣架線改修工事が完了し、長波発射試験を行う

 

 

5/1 電気興業が依佐美出張所を開設

 

 

7/1 在日米軍が無線塔使用開始

 

 

9/2 米海軍依佐美送信所開所式

昭和29

1954

短波空中線用自立式鉄塔を全て撤去、長波用8本の鉄塔のみが残る

昭和31

1956

6/ 無線塔から在日米海軍通信隊撤退し保守運営は全て電気興業に移管

昭和33

1958

5/ 隣接する無線塔が危険とし野田地区に双葉小学校統合への反対運動おこる

昭和34

1959

依佐美の無線塔が刈谷八景の一つに選ばれる

昭和35

1960

2/ 依佐美無線補償組合結成

昭和38

1963

10/ 米原子力潜水艦横須賀基地寄港に対し依佐美基地撤去の集会とデモが行われる

昭和39

1964

8/20 依佐美送信所でオープンハウスが開催

昭和40

1965

1/29 小学1年生の児童が第3鉄塔で感電事故

昭和42

1967

標識塗装及び障害灯の取替工事を施工

昭和43

1968

11/ 依佐美の鉄塔が紅白11層に塗り替えられる

昭和45

1970

窃盗目的の職人が塔柵内への侵入し感電事故

昭和46

1971

3/12 21歳の溶接工が第7鉄塔で感電事故により1ヵ月の重傷

昭和47

1972

6/16 18歳の従業員が第5鉄塔で感電死

昭和48

1973

3/28 刈谷平和委員会串田英一他160人「依佐美通信基地撤去に関する請願」提出

昭和50

1975

10/6 愛知平和委員会が依佐美送信所を調査

 

 

12/31 神戸の小学1年生、宇都秀樹ちゃんが午後6時頃、第3鉄塔金網内で感電死

昭和51

1976

3/9 串田英一他184人「依佐美送信所の安全対策等を求める請願」を提出

 

 

3/21 500人による依佐美基地抗議集会

 

 

8/13-15 イギリス平和協議会書記局シーラ・オークス女史が依佐美基地を調査

 

 

12/17 原水爆禁止刈谷市協議会の串田英一「依佐美送信所鉄塔の安全対策に関する請願」

昭和52

1977

送信所設計担当竹内芳太郎が自叙伝執筆用に本館写真を撮ろうとし守衛に注意される

昭和57

1982

2/21 安保破棄県実行委、県原水協等が野田公園で「2.21依佐美集会」開き800人参加

 

 

6/9 神戸の秀樹ちゃん感電死事故で名古屋地方裁判所は国の管理手落ちを認め900万円支払いの判決下すが国は控訴する

昭和59

1984

4/26 朝日新聞朝刊が「依佐美は原潜へ指令」と報じる

 

 

5/27 11500人参加「トマホークくるな人間のくさり依佐美大行進」が原水協・日本平和委員会によって依佐美基地包囲

 

 

8/ 全斗煥韓国大統領訪日に反対する過激派が時限発火装置で倉庫焼失

昭和60

1985

全鉄塔の紅白9層に再塗装を施行

昭和62

1987

11/ 「人間の鎖」による依佐美送信所撤去運動

 

 

11/19 依佐美送信所本館設計担当者、竹内芳太郎死去

昭和63

1988

12/14 「依佐美の鉄塔と田園風景」が新・刈谷八景のベスト4に選ばれる

平成 元

1989

4/15 電子情報通信学会東海支部が依佐美送信所開局60周年を記念し「対欧無線通信発祥地」の石碑建立

 

 

秀樹ちゃん感電死事故を名古屋高等裁判所は一審を無効とし、国を無罪とする

 

 

7/ 電子情報通信学会東海支部が依佐美送信所記録等収納したタイムカプセル埋設

平成 4

1992

11/23 「人間の鎖」による依佐美送信所撤去運動

平成 5

1993

2回目のオープンハウスを行う

 

 

8/1 依佐美送信所、米軍都合により送信中止(10/8明らかになる)

平成 6

1994

6/21 在日米軍、依佐美送信所を近く返還することを防衛施設庁に通知

 

 

8/1 依佐美送信所、日本に返還

平成 7

1995

10/28 依佐美送信所を公開

 

 

11/2 電子情報通信学会東海支部顧問会議で依佐美送信所保存問題が提案される

 

 

11/12 アンテナ撤去作業始まる

平成 8

1996

1/ 内藤文男「鉄塔供養ライブコンサート」開催

 

 

3/30 中部産業遺産研究会、産業考古学会に依佐美送信所を推薦産業遺産申請

 

 

5/18 産業考古学会から「産業考古学会推薦産業遺産」第43号認定受ける

 

 

5/23 電子情報通信学会東海支部総会にて、依佐美送信所保存運動を決議

 

 

6/ 内藤文男「鉄塔ブルース」写真展開催

 

 

6/8 半城土住民らに依佐美送信所公開、送信所についての講演会を開催

 

 

6/28 鉄塔撤去工事の安全祈願祭挙行

 

 

8/2 東側の奇数塔をエレクター工法により撤去作業始める

 

 

8/5 西側の偶数塔をジャッキダウン工法により撤去作業始める

 

 

8/12 中部産業遺産研究会(田中浩太郎会長)が電気興業に施設保存を要請

 

 

8/29 第8鉄塔がジャッキダウン工法で倒れ、1人死亡、4人重軽傷

 

 

9/4 電気興業が中部産業遺産研究会に送信所保存は困難と回答

 

 

10/1 鉄塔撤去作業をエレクター工法のみで再開

 

 

10/1 刈谷市がホームページに「無線の鉄塔」の項を作る

平成 9

1997

2/ 刈谷市が2号塔跡地に高さ25mミニチュア鉄塔と本館一部を産業資料館とすると決定

 

 

3/4 鉄塔撤去完了

 

 

5/10-18 刈谷市・南部会が送信所にて「依佐美送信所思い出写真・絵画展及び施設見学会」開催

平成11

1999

3/13 半城土の願行寺が無線塔アンテナを溶解した平和の鐘を作る

 

 

3/24 2号塔跡地に25mのミニチュア鉄塔が完成


(1)現在の浜離宮付近の沖
(2)現在の郵政省 
(3)現在の刈谷市高須町
(4)愛知県教育会『愛知県地誌』昭和11年(1936)発行 347〜349頁
(5)在の名古屋鉄道三河線・小垣江駅
(6)現在の貨幣価値に換算すると、約550億円
(7)『国際電気通信株式会社史』所収の大正15年(1926)10月1日付、大蔵
   省理財局長と日本無線電信株式会社社長との間の「対独賠償債権譲渡契約書」による。
   しかし『電気之友』誌第639号、大正15年7月1日、60頁には、テレフケン社から
   の無線機購入費用140万円のうち、70万円が賠償金から充てられるとされている
(8)現在の運輸大臣
(9)この周波数は国際的に日本に割り当てられたもので、他国では使う事ができない
(10)現在の中部電力株式会社
(11)1910から1945年
(12)現在の四日市市
(13)昭和7年(1932)設立
(14)ワルソー(ワルシャワ)、ベルリン、ローマなど
(15)上海、天津、ボンベイ、ベイルート
(16)バタビア(ジャカルタ)、マニラ、バンコク、サイゴン(ホーチミン)、シンガポール、
   ラングーン、青島、北京、漢口(ウーハン)
(17)波長10000〜100000mが超長波、3000〜10000mが長波、
   200〜3000mが中波、50〜20mが中短波、10〜50mが短波、
   10m以下が超短波
(18)ただし能力は約半分である
(19)この超長波は、潜航中の潜水艦が受信できる電波で、日本海軍だけが開発、使用していた
(20)昭和19年(1944)7月以後は、広島県呉より直接管制するようになる
(21)宮内寒彌『新高山登レ1208』六興出版 昭和50年(1975)発行による
(22)標高3997メートル
(23)昭和26年(1951)締結
(24)現在の刈谷高校
(25)現在、私の勤務地は、刈谷市野田町にあり、送信所本館や鉄塔があった場所から近い
(26)本社は、東京都千代田区丸の内

参考文献

依佐美送信所調査団『依佐美送信所調査報告書』中部産業遺産研究会発行 平成11年(1999)
防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書(潜水艦史)』昭和54年(1979)
石黒進『海軍作戦通信史』警備隊術科学校 昭和28年(1953)
日本海軍潜水艦史刊行会『日本海軍潜水艦史』昭和54年(1979)
日本無線電信株式会社『對歐無線電信送信所案内』昭和3年(1928)
日本無線電信株式会社『日本無線』 昭和10年(1935)
国際電気通信株式会社社史編纂委員会『国際電気通信株式会社史』昭和24年(1949)
依佐美送信所『でんこう(別冊)依佐美送信所開局60周年特集』電気興行株式会社 平成元年(1989)
電気興行株式会社『依佐美送信所 70年の歴史と足跡』平成9年(1997)
日本電信電話公社東海電気通信局『東海の電気通信〜90年のあゆみ〜』昭和37年(1962)
愛知県教育会『愛知県地誌』昭和11年(1936)
刈谷市『刈谷市誌』 昭和35年(1960)
刈谷市『刈谷市史・第3巻・近代』 平成5年(1993)
刈谷市『刈谷市史・第4巻・現代』 平成2年(1990)
福田耕『栄枯論ずるに足らず』丸井工文社 昭和43年(1968)
宮内寒彌『新高山登レ1208』六興出版 昭和50年(1975)
鈴木哲『依佐美20世紀年表』 鈴木哲 平成5年(1993)
加藤修『鉄塔が建った』加藤修 平成8年(1996)
杉浦雄司『依佐美送信所(産業遺産を歩く)』愛知県産業情報センター 平成9年(1997)
石田正治『産業遺産の現状と保存(月刊文化財)』第一法規出版 平成11年(1999)


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